日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

事件の報道について

| コメント(0) | トラックバック(0)

「SAHEL BLOG」の方で、なぜ、住んだことのないコートジボワールの事件を何度も取り上げているのか。

私の妻の国マリは1990年代前半は内戦状態にありました。本当に多くの親類や友人が亡くなり、生き残った人々の心にも深い傷跡を残しました。義父は内戦を強く乗り切りましたが、内戦が終わると急に老け込み、間もなくなくなりました。
あんな理不尽な出来事、不幸な出来事があるのだということを、多くの人に知って欲しいと思いましたが(当時はその事件を機会があるごとに書いたり話したり、英文のサイトを作成して報告したりしていました)、日本の報道ではマリの事件はほとんど取り上げられませんでした。

私があの内戦から身をもって学んだことは、(戦争はすべてそうですが)直接関与していない一般市民の大きな犠牲を生まずにはすまないということです。
(9.11以後のアメリカ合衆国によるアフガニスタン攻撃においても誤爆など多くの市民の犠牲がありました)
コートジボワール南部で排斥運動に晒されているブルキナ人や北部出身者の多くは、内戦に直接関わっていません。ただ生まれた場所や国籍のせいで追いやられようとしています。
私には、彼らに、マリの内戦で殺された友人たち、そして軍の迫害から育った村を捨てて砂漠に逃げた妻や義父姿が重なります。
内戦の不幸を一人でも多くの人に知ってもらいたいと思いコートジボワールの事件を追っています。

コートジボワールのマイノリティの人々が、再び幸せな日々を送れる日を願いつつ。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://sahelnet.org/mt/mt-tb.cgi/34

コメントする

このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2002年10月 8日 18:52に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「遠いアフリカ(その2)」です。

次のブログ記事は「コートジボワールのクーデター(その7)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。