サハラの旅から戻り、改めて砂漠の友人たちを写真に収めたいと始めた写真ブログ

マラブー 【閑話休題】

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イスラム教の経典「クルアーン(コーラン)」

あなたがたには、あなたがたの宗教があり、
わたしには、わたしの宗教がある
(第109章、不信者たちの章6節)

d0087256_6512243.jpg8月4日に書いた「墓前に立ちて」のコメントで、inamokuさんから、イスラム教の「お坊さん(宗教家)」についての質問を戴いた。
以下はそれに対する私なりの回答。

イスラム教では原則、神への祈りに仲介者(=お坊さん)は必要ない。
一人一人が直接神に祈り、正しい行いをすれば良い。

冠婚葬祭は、身内あるいはその地域の中で、一番知識が豊富でまじめ(これが大事)な人が、あるいは最年長者が、集団の祈りを指揮する。

イスラム教の礎を築いたムハンマド(モハメッド)も商人であり、「祈ってばかりいないで働きなさい」との言葉もあり、働くこと、特に商業が重んじられている。
しかし皆が仕事に勤しんでいるだけでは、宗教上の正しい判断ができず混乱が生じる可能性がある。
そこで、宗教の勉強をする人を家族や地域で支援する、という考え方がある。
だが神学・(宗教)法学者は、宗教的判断を下すための役割を持つのみで、他人と神の仲介者では決してない。

とはいえ、西アフリカのイスラム教は、それぞれの地域の伝統宗教やイスラム神秘主義の影響が強い。
マラブーという他人の相談事に対して宗教的判断をするだけでなく、他人のためにコーランを詠んだり、時には他人の望みが叶うように祈り、護符(グリグリと言います)を作る人たちがいる。
彼らは、時に聖者のように尊敬されている。
マラブーは、その行為に対して対価を得る。
対価は、神との仲介を依頼した人の自主的判断で決められることが多いが、マラブー自身がそれを決めることもしばしばある。

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セネガルでは、弟子入りしてきた子供たちをろくに指導もせず、お布施集めや自分の土地の耕作ばかりにこき使っているマラブーがいると、時に問題になっている。
もちろん真面目なマラブーも大勢おり、マリではセネガルのマラブーのような悪評はあまり聞いたことがない。

しかしマリでも、求められて他人を「呪う」祈りをし、それで報酬を得ているふとどきなマラブーがいる。
西アフリカには今も伝統宗教(アニミズム)が存在し、そこにはさまざまな呪術儀式がある。
呪術儀式を専門にする呪術師も多くいる。
イスラム教が西アフリカに広まった時に、地域固有の伝統宗教と混ざり合い、イスラム教の中に呪術的な考え方が入り込み、それが今も残っている。

このマラブーという存在や、その非イスラム的行為を私は納得できず、しばしば衝突してきた。
「イスラムの深い知識を持っている人の言葉にはしっかり耳を傾けよう」
「正しい行いをしている人は、もちろん敬う」
「助言や指導は、真摯に受け止める」
「しかし神との仲介者は求めない」
「コーランは詠むもので、護符にして持ち歩くだけものではないはずだ」
「グリグリはいらない、持たない」
しかし、幸い、今まで呪い殺されずに生きている(神に感謝)。

結婚当初は、生まれた時からマラブーの存在を疑ったことのなかった妻と、何度も議論した(笑)
今、妻はグリグリを身に付けていない。

義父もマラブーと呼ばれ、地域の中で尊敬されていた。
しかし、義父は、決してマラブー的な行いを生活手段とはせず、公立学校の公用語(フランス語)の一教師、アラビア語の一教師として生活の糧を得て、老後は年金で慎ましく暮らしていた。
イスラムとアラビア語に造詣が深く、助言を乞う地域の人々が後を絶たなかったが、それに対して金銭的な対価を求めたことはなかった。
「何かを求め祈る時には、自分で家畜を犠牲として捧げなさい(自分の持てるものの中から対価を神に差し出しなさい)」
というだけでした。
そして、決して他人に害を為すような祈りは認めず、しなかった。
この人の娘なら、と今の妻を選んだ。

あれ?話の趣旨は違ったか。

イスラム教の特徴としてもう一つ。
キリスト教の原罪(すべての人類は神に背いたアダムの子孫)や(兄弟殺しの)カインの末裔という、生まれながらにして罪を背負っているという認識はない。
仏教でも、徳を積まずに死んだ新生児は成仏できない、という地域があるが、イスラム教では、生まれたばかりの赤ん坊は、一切の汚れはなく天国に行ける。
自分の評価は、あくまでも自分のなしたことで決まる、というこの考え方が私は好きだ。

---
上はあくまで私の解釈。
勉強不足、知識不足で間違っている点があるかも知れない。
たけやん、あるいはそのほか知識のある方、間違ったことを言っていたら訂正してください。

(3枚目はEF70-200mm F2.8L IS USM + 30D)

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コメント(3)

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なるほど、仏教やキリスト教では聖職者が職業として確立されているので、テレビや映画からでもその存在が解るのですが、イスラムについてそういった知識が無いだけなのかなと思っていました。
もともとお坊さんや牧師さんに相当する物が無いのですね。
それは大変理にかなっている事だと思います。
触らぬ神に祟りなしである無宗教な私もイスラムなら納得出来たのかも。
私から見るとお坊さんや牧師さんはビジネスとしか見えない人が多いからです。
かと言って今からイスラム信者に成ろうとも思わないので生涯無宗教(我が家の宗教は形式的には仏教ですから法事は行いますが)だと思うのです。
もちろん、私に危害が及ばない限り他人の宗教に意見する事も無いでしょう。
>あなたがたには、あなたがたの宗教があり、わたしには、わたしの宗教がある

宗教に於いてこの言葉を自らが言えることは素晴らしいですね。

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>あなたがたには、あなたがたの宗教があり、わたしには、わたしの宗教がある

・・・と言いたいところですが私も今のところ無宗教です。
無宗教ということ自体がそちらの方からしたら、
信じられないでしょうね。
もし「私は無宗教だ」と言ったら、どういう言葉が帰ってくるのでしょうか?
あまり、いい反応はないと思いますが・・・(笑)

無宗教は、日本人に多いパターンですよね。
ないと暮らせないと言うほどのものでもないし、
でも、祈る姿やコーランや聖書を読む姿には憧れます。(笑)
宗教については知らないので失礼なことがあったら、
教えてください。
いろんなことを正しく知っていく為に・・・・。
それにしても文章も筋道だってすっきりとしているし、
無駄な言葉もないしスイスイ読めますね。
読みやすく、わかりやすいのでありがたいです。
ありがとう。感謝。

SECRET: 0
日本人は、宗教をごちゃまぜにしていると思います(笑)
お正月には神社に行き、結婚式は教会で、亡くなる時にはお寺で。。。
クリスマスの本当の意味も知らないままに盛り上がっているし。

我が家も形だけの仏教徒ですが、自分で見る位牌の数が増えていくにつれて、
宗教ってなんだろう?と思うことも多くなりました。

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2006年8月12日 16:50に書いたブログ記事です。

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