サハラの旅から戻り、改めて砂漠の友人たちを写真に収めたいと始めた写真ブログ

数年ぶりのトンブクトゥ

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トンブクトゥに入る
思い出の町は様変わりしていた

d0087256_1313866.jpg渡し場のあるコリウメから舗装道路を北上。
トンブクトゥの町に入ったところにあった小さなガレージでパンクしたタイヤを修理。

トンブクトゥにはさまざまな思い出がある。
大学を出て、卒業式も待たずに日本をでて、モロッコ、アルジェリア、ニジェールの砂漠を周り、辿り着いたトンブクトゥ。
ここでラクダのキャラバンとともに北の塩鉱タウデニまで行こうとした。
しかし当時、タウデニには政治犯の刑務所があり、バマコまで出かけて交渉したが旅行許可が下りなかった。
そこで、ガイドを雇い、タウデニとトンブクトゥの中継地であるオアシス、アラウアンまでラクダに乗って出かけた。
アラウアン直前でひどい砂嵐に遭い、草を食べさせるために放してあったラクダの足跡がかき消され、1頭見失ってしまった。
探しに行ったガイドも、私をアラブのテントに残し、翌日まで帰ってこなかった。
翌日テントに戻った彼の、お腕に注がれた水の飲みっぷりは今でも忘れられない。
結局ラクダは見つからず、アラウアンから2人で1頭のラクダに乗って帰ってきた。
それからモーリタニアの砂漠を回り、もう一度トンブクトゥに戻ってきた。
アラウアンへのガイドをしてくれた男に頼み込み、トンブクトゥから数キロのトゥアレグのキャンプにある彼のテントに住み込んだ。
彼の属する部族イミッディダガンは、トゥアレグの中でも家畜の放牧に長けている部族として名を馳せていた。
何千頭のラクダの足跡も見間違わない。
家畜だけでなく、人の足跡も見分けられる。
ラクダの足跡を見れば、誰が乗っているかも分かる。
1年かけて、彼やその部族の仲間から砂漠の暮らしとラクダの扱い方や探し方、そしてトゥアレグの言葉タマシェク語を学んだ。
時々、トンブクトゥの町に買い物や息抜きに来たものだった。
その後、モーリタニアからアルジェリアまでラクダでサハラを横断した時も、トンブクトゥに立ち寄った。
さらにその3年後、NGOのスタッフとしてマリに来て、トンブクトゥに家を借りて暮らした。
今の妻がまだ恋人だった頃、ユニセフの識字教育の普及員としてトンブクトゥに研修に来た折、借りたその家で、とてもおいしい料理を作ってくれた思い出もある。
その後も、なんどこの町を訪れただろうか。

トンブクトゥから私が住み込んでいたあたりの砂丘は、白と言うよりほんの少し赤みがかった薄黄色をしている。
ラクダでモーリタニアからマリに渡った時も、トンブクトゥの近くに来た時、砂の色ですぐにわかった。
トンブクトゥの砂の色は、一生消えることのない私の一番強烈な記憶色だろう。
しかしそんなトンブクトゥに、もう8年も訪れていなかった。

昔は、歴史的な有名なトンブクトゥも小さな田舎町で、遊牧民の格好をした日本人は珍しく、街を歩いていると皆私の名前を呼び挨拶してくれた。
ガオ(トンブクトゥから450kmほど西の町)で知り合った旅行者が、私に尋ねたいことがあるとドイツから手紙を書いて寄越した。
しかし彼は私の名前も忘れていて、手紙の表にこう書いた。
Touareg japonais(日本人の遊牧民)
Tombouctou, Mali(トンブクトゥ、マリ)
トンブクトゥの郵便局員は、この手紙が届くと、私の住むテントまで「手紙が届いているよ」と伝言を送ってくれた。

当時は、それくらいのんびりした、住民誰もの顔の見える町だった。
しかし、トンブクトゥは激変していた。
多くの車が行き来している。
町から川までの道の左右に町が大きく広がっている。
電線が縦横に走っている。
町の忙しない息遣いが聞こえてくる。
そして町の中あちこちにビニールの袋やプラスチックのゴミが落ちている。
胸が痛んだ。

d0087256_132369.jpg d0087256_1315222.jpgこんなに変わり果てた町に。今も私を知っている人間がいるだろうか。
タイヤの修理を待つ間、道路際に立って知り合いが通るか確かめてみることにした。
もし知り合いが見つからなかったら淋しいなと不安を抱きつつ道端に突っ立っていると、2〜3分もせず前から歩いてきたターバンの男が私の名前を呼んだ。
昔の面影がある。
かつて私が世話になった部族イミッディダガンのひとりだった。
しかし私が知っているのは、彼がまだはな垂れ小僧だった頃だ。
それが髭を生やした一人前のトゥアレグになっていた。
しばらく懐かしい話に花を咲かせていると、また別の男から声を掛けられた。
町は変わっても、知っている人々が相変わらず暮らしている。
私を覚えてくれている人がいた。
それがとても嬉しかった。
トンブクトゥの町は変わったが、町の外の砂丘には、私の青春が埋まっている。
そんな風に感じた。

町の中をもっと見てみたい気持ちもあったが、タイヤの修理が終わると、すぐにトンブクトゥを後にした。
トンブクトゥからおよそ95km西の、父の墓のあるグンダムに車を走らせた。

*思い出深いトンブクトゥだったが、パンク修理の僅かな時間の滞在で、ほとんど写真を撮っていなかった。
そのため、写真的にはものたりない投稿になってしまった。
しかし帰路立ち寄った時には何か所か歩いて写真を撮った。
乞期待。

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コメント(6)

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1枚目は電柱に目が行きます。
便利になってきたんでしょうね。
電化製品はどういうものがあるのでしょうか?

3枚目の道路のゴミが気になりますね。
便利になっていろんなものが入ってくると、
ビニールの袋やプラスチックなどの自然分解しないものがゴミとして残って困りますね。

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電化製品、あまりたいしたものはないですね。
明かり、冷蔵庫(電気がないところはガス式)、パソコン・・・
この地域ならではのものだと、短波無線機かな。
それから自家発電機。
電気があるといっても以前はよく停電しました。
最近はどうかな。

それから、国際機関やNGOの車にも、GPSと短波無線機が搭載されていたりします。

街中のゴミ、本当にたくさん目に付きました。
そう人に言うと、それでも世界遺産の町になり、一時期より随分良くなったと言うのですが・・・

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世界遺産・・・調べたら素晴らしいモスクが・・・・。
でも、教徒だけしか入れないようです。
昔は交易の中心として栄えた町だったのですね。
後で又これらの写真が見られるのを楽しみにしています。

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タイヤを修理するガレージがあった事も珍しいのでは?
日本では、ほとんどが、交換しているけど、、、、。
タイヤの消耗も、早そうなので、予備を積んでいるものとばかり、、。
jujubierさんが、いらした頃と変わらない人々の心、ホッとされた事だと思います。何だか、自分探しと言ったら、ちと違うかも知れないけど、
いっぱい、いっぱい思い出の詰まった地なのですね?
私の場合、その土地の空気の匂いとかも、記憶に残っていて、
似た様な匂いに出会うと、懐かしさでいっぱいになります。
次回、訪れた時は、ゴミが少なくなっていたらいいですね?
ラクダについて、ノウハウを教わったなんて、、、素晴らしい。
信頼されていらしたからだと思います。

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biwakokayoさん、
モスクの写真は8月23日の投稿にご期待下さい!

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かよちん、
ぼろぼろになるまで使い込まれた車が多いので、パーツ屋と修理屋はあちこちにあります。

もちろん予備のタイヤを積んでいましたが、後輪がパンクしたので、トンブクトゥの町に入った時は交換した予備のタイヤをつけていました。
その状態で砂漠に出るのはリスクが高いので、早めにガレージでパンクしたタイヤを修理してもらったわけです。

ラクダについてのノウハウを「教わった」と言うより、毎朝毎朝、来る日も来る日も、ラクダ探し「させられた」だけかも。
でもそれを365日やり続けたら、ラクダのことが少し分かるようになりました。

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2006年8月18日 08:32に書いたブログ記事です。

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