サハラの旅から戻り、改めて砂漠の友人たちを写真に収めたいと始めた写真ブログ

影を見る

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夜の明かりに照らされた大連の町を散策し、
写真を撮っていて、突然気が付いた。

影を見よう。

サハラ砂漠で日が沈むと、遊牧民たちは月明かり、星明かりだけで暮らしている。
食事も、雑談も暗闇の中。
懐中電灯を点けることもあまりない。
雨期の夕食事など、明かり引き寄せられた虫が料理に飛び込んでくるので、敢えて懐中電灯を点けない。

もしかすると夜目の利く彼らの目に映る光景は、暗闇に慣れていない私の目に映るものとまったく違うのかも知れない。
そう想像するがそれを知ることは出来ない。

町でも、家の中の明かりは、日本の照明に比べるとずっと薄暗い。
だから、夜写真を撮ることは、ほとんど諦めていた。
日本の田舎にある私の家の周りも、華やかな店の明かりはない。
ただ、道を照らすという一途な目的に徹した外燈だけだ。
(年末だけは家を飾る電飾で様変わりするが、その話はまた)
だから、夜、写真を撮ろうという気持ちは湧いてこなかった。

言い換えると、これまでの写真は、サハラ砂漠では特にそうだったが、昼の強い陽射しの中、如何に光に負けないで、人、もの、風景をはっきりと切り取れるか、そういう意識で写していた。

しかし日本の大きな都市や大連の街は、サハラ砂漠や私の住む田舎と違って、人目を引く、様々な強い明かりに満ちている。
そんな光にあふれた通りを「写真に撮りたい」という意図で眺めながら歩いていて、ふと、気が付いた。
そこには、光に照らし出された「もの」だけがあるわけではない。
その「もの」を浮き立たせている影もある。
光と影があってはじめてものが見える。
影があるから、明るいところが映えているのだ。

ものを見る、写真を撮るとは、光だけでなく影も同じくらいに見ることなのだ。
だったら、光の当たっているところでなく影そのものを写真に撮ることも「有り」か。
そんな当たり前のことに、今更ながらに気が付いた。
当たり前のことだが、自分にとっては、ものを見る、写真を撮る上で、大きな意識の広がりだった。

この意識が、すぐにいい写真には結びつかないないだろう。
しかし自分の写真が少し変わる気がする。
影を意識し過ぎて技術に走らないように自戒しつつ、新しい意識で写真を撮ってみようと思った。

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コメント(4)

SECRET: 0
写真と言う平面に立体感や表情を出すには
光と影が上手くかみ合わされた方が・・・
なんて、思いますね。
どう表現していくか・・・
いろいろ模索したいです。
jujubierさんの写真を参考に・・・。

SECRET: 0
*かよさん、
今更ながらに、影の読み方に少し気が付きました。
上の「曙光」は、そうして初めて撮れた写真です。

SECRET: 0
光あるところに影がある、まこと栄光の影に数知れず忍者の姿が・・・・(笑)

影を主役にするか光を主役にするか・・・。
難しいでしょうねぇ。
私はそんなこと考えた事もないのでお気楽ですが。(^_^;)

SECRET: 0
*いなやん、私がようやく気が付いたのは、こむつかしいことじゃないと思います。
きっと、いなやんをはじめ写真を長く撮っていらっしゃる方は、意識しないでも判断している、そんな当たり前のことなんだと思います。

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2006年12月 4日 21:00に書いたブログ記事です。

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