サハラの旅から戻り、改めて砂漠の友人たちを写真に収めたいと始めた写真ブログ

なぜ北に向かう?

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あの頃私は
砂漠で夢を食べていた

その夢は
砂漠を食べていた

「おまえはなぜ(ラクダで)北に向かう?」
どう答えたのか?

実は、答はない。

この話は、まず私の「夢」から話さないといけないだろう。
長い話だが、お付き合いの程。

外国へ行きたい

遠い異国の地に出掛けてみたいという思いは、誰しも一度は抱いたことがあるだろう。
エルマー、ガンバ、ドリトル先生シリーズ、そして極北の犬トヨンなどの冒険小説を読んで育った私は、そんな思いをとても強く持っていた。
高校生の頃、その思いはさらに高じていたが、行きたいところは恐らく多くの人がまず考えるような欧米ではなかった。
まったく違う世界が見たかった。

砂漠へ行きたい

そんな頃、シーブルック(本田勝一じゃない)の「アラビア遊牧民」を読み、
アラビアだ!
ベドウィンと生活してみたい!
そう思った。
遊牧民に関する本を片っ端から読み始め、そして上温湯隆の「サハラに死す」に出会った。
上温湯の行動に共感し、生き生きとした描写にサハラ砂漠の虜になった。
そして思い半ばにしてサハラで果てた彼の遺志を継ぎたいと思った。
思ったが、それに関する本を読む以外、何をしたわけでもなかった。
そんな時、同志社大学の探検部の学生ふたりが、ラクダでサハラ砂漠横断の冒険に出たという記事を読んだ。
これはショックだった。
自分が夢を忘れかけている時に、同じ夢に向かって実際に行動している者がいた。
後悔の念に涙が止らなかった。
「あのときああすれば良かった」という不実行の後悔は2度とすまいと誓った。
これが今も私の座右の銘だ。
大学はアラビア語を勉強できる学部に入った。
時間があるとサハラに行ったことのある人たちを日本中訪ね歩いた。
在学中、春休みには実際にサハラへ2度出かけた(当時はアルジェリア−ニジェール/アルジェリア−マリのサハラ縦断が可能だった)。
そして大学卒業後、マリ北部に再訪し、ラクダの旅の準備として、遊牧民のテントに住み込み、砂漠の生活、ラクダの世話、彼らの言葉を学びました。
そしていよいよ、数年越しの「夢の旅」に出た。

夢の旅

しかし、ラクダを買い、いざ出発しようとした日にクーデターが起きて数日足止めをくらった。
数日後ようやく移動許可がおり、村人に見送られ、ラクダを引いて村の外に出て颯爽とラクダに乗った。
しかし、ラクダが起き上がろうとした途端、鞍紐が切れて見事に転落。
そんなその後の旅を予感させる幕開けでこの「夢の旅」が始った。

ラクダの失踪・ケガ
砂漠の中でのラクダのストライキ
高熱で気を失った
砂で角膜が傷ついた痛み
砂嵐、豪雨
サソリに刺された
道(なんてないが)に迷った
ラクダに詰んだ水が尽きた
銃で撃たれた
パスポートの紛失
・・・
本当にいろいろなことがあった。

しかし、行く先々でもてなしてくれた遊牧民たちの暖かさと、今まさに夢を実行しているという喜びは、そんな苦労よりも遙かに大きく、様々なトラブルも旅を続ける妨げにはならなかった。
ラクダを引いて砂漠を歩きながら、サハラ砂漠をラクダで横断する、という「夢」を今まさに自分の叶えているんだ、という大きな充実感、高揚感があった。

しかしこの時、20世紀の中でも最も深刻で長期的な旱魃がこの地域に広がりつつあった。
雨が降らず、次第にサハラに牧草がなくなってきていた。
死んでいる家畜をしばしば見かけるようになってきた。

夢の代償

モーリタニアからマリに入りしばらくしたある晩、出会った遊牧民のテントの近くに荷物を下ろし、夕食後、遊牧民とお茶を飲んでいる時、尋ねられた。

「どうしてラクダで『北』行くのだ?」
マリでは、北にサハラ砂漠がある。
だから「北」は厳しい自然の象徴だ。
「商売でもない。家族のところに帰るためでもない。誰かに会いに行くためでもない」
「わざわざ『北』に行く必要はないだろう」
「俺たちは、生きるためにラクダに乗る」

旱魃で家畜が痩せ細り死んでゆき、家族を養うための糧がなくなりつつある男に、「夢」や「ロマン」という言葉を口にすることはできなかった。
「砂漠で一番すばらしい女性を探し歩いているんだ」と冗談を言うしかなかった。

男の問いは批判ではなかった。
素朴な疑問だった
しかし彼の言葉は、それまでに出会ったどんな困難よりも私を打ちのめした。

サハラ横断のような、起点と終点を結ぶ計画を完遂するためには、まわりに目を奪われてはいけない。
脇目も振らず、ひたすらゴールだけを目指して走り続けるのが最良の方法だ。
しかし私は、多くの遊牧民の世話があって旅が続けられていることを、前に進めば進むほどに無視できなくなった。
ゴールよりも途中の出来事、人々に心を奪われはじめていた。
砂漠とそこに暮らす人々から目が離せなくなっていた。

男が自分のテントに帰った後、私は長い間そこに座っていた。
耳の奥に彼の言葉が響いていた。
ふと気が付くと、夢を食べている私の傍らで、私のラクダが遊牧民のかけがえのない草を食べていた。
「潮時か」
半ばにして、ラクダの旅を終えた。

追記 (2006.01.20)
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遊牧民的人生 a Life as Bedouin : 理由
ありがとう。

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コメント(4)

SECRET: 0
こんばんわ。
今までの記事を読ませていただいて、少し想像していたより、はるかに様々なことに出会われているのですね。
実際に経験された方で無いと、持ち得ない雰囲気を感じます。

SECRET: 0
大自然を味方にして、大自然と共に、行きている人たちの暮らしは、私たち日本人の暮らしとは、全く異なる生活だったでしようね。
でも、気が付けば、大自然の中での暮らしを居心地良く感じるjujuberさんにとって、故郷となった訳で、、それまでに至までの葛藤、楽しさ、
妥協、その全てを乗りこえられた大人の人間を感じます。
一人の人間として、素晴らしい使命を背負っているのかも知れませんね。決して、誰でも真似出来る事では無いてす。
与えられた人生を精一杯生き抜いて下さいね。
全ては、ここから始まり、全ては、今から始まるのかも知れません。
これからのjujuber さんに期待したいですね。

SECRET: 0
*j_capacityさん、
サハラ砂漠では、冒険小説に負けない様々な経験をしたと思います。
今の私は、それを生かせているのか・・・

SECRET: 0
*かよちん、
いつかサハラ砂漠に帰るまで、後悔のないように、現実逃避せず、精一杯生きて行きたいと思います。
サハラから遠い場所にいても、これまで築いてきた遊牧民たちとの繋がりは決して切れることはありませんから。
今も彼らとの繋がりが、私に前に進む力を与えてくれています。

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2007年1月20日 04:31に書いたブログ記事です。

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