サハラの旅から戻り、改めて砂漠の友人たちを写真に収めたいと始めた写真ブログ

ラクダと宝石

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モーリタニア、Nemaのラクダのマーケット

はなももさんのブログ「はなももの別館」に、なぜラクダを飼っているか書かれていた。
財をなし、定住化した中東の人々にとっては、ラクダの存在意義や価値は大きく変ってきているのだろう。
しかしサハラ砂漠の遊牧民にとっては、ラクダと宝石は、昔も今も変らない大きな意味を持っている。

北・西アフリカのサハラ砂漠の中で、ラクダが多く飼われている場所は年間降水量が300mmに満たないところが多い。
1年間に僅か100mmの雨も降らない時もある。
ちなみに日本の年間降水量は1000mm〜2500mmほどだ。
そんな乾燥した場所では、雨期には草が緑の絨毯となり、木々も緑の葉を茂らせる大地も、乾期には、荒涼とした土と砂だけの乾いた風景に一変する。
遊牧民の生活必需品の多くは、その地に育つ木の枝や草の茎と、家畜の皮で作られているものが多い。
口にする糧も家畜の乳製品と、自然採取物の草の種や家畜を売って手に入れる穀類だ。
従って遊牧民にとっては、家畜を増やすことが生きる手段だ。

しかし脆弱な土地に定住することは難しい。
彼らは、家畜の食べる草木を求めて移動しつつ暮らす。
遊牧生活を営む人々には、定住する私たちの常識の病院も学校も銀行も役に立たない。
しかし、彼ら自身の暮らしに根付いた治療と教育と蓄財のシステムがある。

治療と教育についてはまたの機会に。
ここでは銀行に代わるシステムとしての牧畜について。

家畜自身が彼らの銀行であり、家畜を増やすことが財産を殖やす手段なのだ。
そんな家畜の中で一番価値が高く、旱魃にも最も強いのがラクダだ。
厳しい環境に強いから、価値も高いのだろう。
だから彼らにとっては、ラクダは一番の財産である。
今では、財をなし銀行に預金も持つ元遊牧民も多いが、アフリカ資本の銀行はパンクするリスクもある。
クーデターもないとは言いきれない。
銀行がいつ利用不能になるかも知れない。
通貨の切り下げがあるかもしれない。
そんな銀行や通過に信頼しきれない不安定な要素があるところでは、ラクダを始めとする家畜を持つことは、銀行への預金では拭えないリスクを補ってくれる蓄財方法でもある。
家畜を持っていることは、「土地」や「家」を持たない彼らにとって唯一の担保でもある。
そうは言っても、旱魃で家畜を一度に失うリスクももちろんあるのだが。

車による交通手段が発達した現在も、高価な車の買えない多くのサハラの遊牧民にとってラクダは、車でも越えられない砂漠を移動出来る最良の交通手段でもある。
また、生きた家畜を飼うことは、食料保存という観点からも非常に有効な手段だ。
殺した家畜の肉は干し肉として保存出来るが、それでも移動時にそれを持って歩くのはかさばる。
しかし生きている家畜は干し肉より遥かに長く「保存」で、自分の足で移動に付き合ってくれる。

女性の身に付ける装飾品も、ある意味家畜と似ている。
それは装飾品としての美しさだけでなく、持ち運び可能な、そして必要な時には換金できる財産なのだ。
貨幣経済にまだ完全に取り込まれておらず、現金をほとんど持たない遊牧民の女性にとって、装飾品は離婚した時には、そのまま慰謝料として持って行くことができ、離婚した翌日からも生活を支えてくれるものなのだ。

上の理屈は、中東の現状には当てはまらないだろう。
しかし、彼らの中にも、かつてのそんなラクダや宝石の価値観は今も大きく残っているのではないだろうか。

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このページは、Yoshinori FUKUIが2007年6月 2日 11:56に書いたブログ記事です。

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