今回は弔問について。
私たちが間に合わなかった葬儀の日、本当に多くの方が来てくださったという。
私たちが着いた後も毎日多くの弔問客があった。
一番遠くからの弔問客は、日本から来た私たちだろうが、フランスの妹、モーリタニアの従弟をはじめ、マリ国内からは1,000km以上離れたアンソンゴ(Ansongo)やガオ(Gao)など遠くからも沢山の親類がやって来た。
追悼の電話は、フランス、モロッコ、セネガル、ブルキナファソなどから戴いた。
(右から2人目
マリ政府の要人をしており、私が兄と慕っているトゥアレグの親類は滞在期間中何度も来てくれた。
かつてのグンダム県知事でもあり、トンブクトゥ地方で一番勢力のあるトゥアレグの部族カル・アンサール(Kal Antsar)の部族長も、バマコに治療に来ていたついでと言って立ち寄ってくれた。
冒頭の写真は、彼が別れ際に家族に祈りを捧げてくれているところだ。
Tartitというグループ名は、1990年代モーリタニアに避難民として滞在していた彼らが、セネガルのわが家を訪れた折、妻が命名したといういきさつがある。
やはり私たちがダカール滞在中、わが家に住み、ダカール大学薬学部に通って薬学博士になり、今はマリで活躍しているトンブクトゥ出身のアラブの親友も数年ぶりに顔を見ることができた。
彼は忙しい中できるだけ時間を割いて家に来て、共に過ごしてくれた。
かつて私が日本のNGOのスタッフとしてマリで働いていた時の同僚も、この機会にやはり数年ぶりで会って話ができた。
昨年の愛知万博で知り合ったマリ人たちも、ほとんどが弔問に訪れてくれた。
本当に数えきれないほどの心のこもった弔辞をもらい、言葉にできない感謝の気持ちを、できる限りのもてなしで示すしかなかった。
マリでは、訪問者に礼を尽くすのは最低限の礼儀作法であり、帰り際には、家の外まできちんと見送るのが習わしだ。
だが弔問時は例外で、初めて弔問に訪れた人を付き添って送り出してはいけない。
座ったまま、あるいは立って握手をするだけで済ませる。
それを、礼儀を尽くそうとするあまり、一度家の外まで見送ってしまった。
妻にそれを指摘され、送り出した相手にすまないことをしてしまったと恥ずかしさで一杯になった。
後日、彼には陳謝した。
(写真は礼を失した方ではない。葬儀の礼拝の導師をし、またコーランを詠んでくれ、弔問にも何度も訪れてくれた母の親類。かつては文部省のお役人)
弔問を受けるこの家に滞在しているのは、眼の治療のため短期的に滞在している妻の姉、私たち夫婦、フランスから弔問に来た妻の妹、ここに住んでいる弟夫婦、弟夫婦を手伝いずっと母の面倒を見てくれていた妻の妹、母の従姉妹などだ。
近くに住んでおり頻繁に手伝いに来てくれる妹夫婦も2組あるが、この家にいる最年長の男性は私だ。
トゥアレグの社会では、年齢だけでなく、長女の夫がここにいないため、次女の夫と言う社会的な階梯システムも重視される。
要するにどっちをとっても私が家長的な立場にある者とし見なされるわけだ。
だから私が責任を持って弔問客を迎えなくてはならない。
これだけトゥアレグ社会にどっぷりつかり、長く着き合っていると、外国人だからというエクスキューズはない。
私の行いが家族の評価につながるので、のんびりと、食べて、寝て、起きて、写真を撮って、インターネットカフェにいってパソコンを叩いているだけ・・・というわけには行かなかった。
そんなわけで注意していたつもりだった矢先、先の失敗を犯してしまい、これは悔しかった。
しかし、それ以外はなんとかその役割をこなせたのではなかろうか。
といっても13日以降は私は不在となり、弟にその役割を託してしまったが(その話はまた)。
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気をつけていてもうっかり・・・・ということはありますね。
でも、それは立場上許されないとなると・・・
いろいろ緊張しますね。
でも、jujubierさんはとても自然にそちらの生活に馴染んでいらっしゃるように見えます。
それは、それ相当の見えない努力があるのでしょうが・・
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見えない努力はしてません。
こつこつ何かするのはすごく苦手です。
マリの遊牧民の社会は、ヘンな無理をせずにいられるんですよね。
不思議に自分に合ってます。
とはいえ、何年も、あっちで叩かれ、こっちで凹まされ・・・その結果、今の私があるのかな(笑)
SECRET: 0
家族の評価ですか。
結束力や仲間意識が強い程そういう事も大切になるのでしょうね。
日本人は隣の事にはどんどん無関心になって行っていますね。
トゥアレグの人が我が家を評価したら0点だと思います。(^_^;)
SECRET: 0
他人を結構批評する土地柄ですが、よそと自分のうちを比べる、という見方はしないんですよね。
貧富の差があり過ぎるせいか、みんな同じとか、よそもやっているからうちも、という考え方はしないです。