それでも、遊牧民たちの見返りを求めない歓待が心に残っていた。
そして日本に戻った2年後、またサハラ砂漠に戻っていた。
それからさらに月日は経ち、トゥアレグの妻を娶り、内戦化したマリの難民をセネガルのわが家に受け入れながら4年暮らした。
そして1995年末、もう一度トゥアレグや開発について学び直したいとフランスに留学した。
パリでは、アフリカ関係の書籍の豊富なL'Harmattanという書店に、ひと月に1度は顔を出していた。
ある日その薄暗い書店の本棚の間で男とすれ違った。
彼にどこか懐かしさを感じた。
彼とはどこかで出会っている。
立ち止まり、記憶の澱をすくっていると、私が手にしたトゥアレグの本を見ながら彼が言った。
「サハラの君かな?」
カメラを構える仕草をした。
「ええ、Monsieur de Leica (ライカの方)」
12年ぶりの再会だった。
「CLEを買ってサハラに行ったんですよ」
それから、何度か彼の家を訪れた。
どうして昔、私に声を掛けたのか訪ねてみた。
「アジア人なのに、懐かしいアフリカの空気があったからね」
またある日、私が1959年生まれだと言うと、彼はしきりに頷いていた。
それがどんな意味かわからなかったが、その時は何も聞かなかった。
それから数ヶ月後、マリ国籍の妻にフランスの長期ビザが下りず、私はフランスを去ることを決めた。
たくさんの友人たちに別れを告げた。
彼の家にも訪れた。
「これを記念に」
1台のカメラを手渡された。
「カメラもレンズも1959年製だ」
その時は、その年に何があったのか既に聞いていた。
「こんな高価なものは受け取れません」
「墓場まで持って行くものじゃないから」
彼はそう言って笑った。
「あの年は大きな転機だった。辛い年だったけれどその後良くなった。その年に生まれ、今が大きな転機の君に」
「これは変化をシンボルみたいなカメラだ。中でも59年のものは、変化のただ中にあった。良き古さと新しい改良が同居している」
しかし測光計もないそのカメラを、私は使いこなせなかった。
だからそれは、カメラとしてではなく「思い出の品」として、ずっと手元にあった。
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*鍵コメさん、
おお、そうですか。
これからもよろしくお願いします!