日本トイザらスがこんなサービスを始めました。
必要事項を記入した申込用紙を店舗のポストに投函(とうかん)すると、12月中旬から25日の間に(フィンランドのサンタクロース)から手紙が届く。1199円で、売り上げの一部は難病と闘う子どもを支援する活動に寄付される。
これは、サンタクロースが住んでいると言われるフィンランドのラップランド州政府公認のサービスなんだそうです。
サンタクロースには、毎年数多くの手紙が届くそうですね。
きっと宛名は、いろいろな国の言葉で
サンタクロース様
フィンランド
と書かれているんでしょう。
そしてその簡単な宛名の手紙のひとつひとつに、子供たちの願いと物語が込められているのでしょう。
サンタクロースみたいに有名でない私にも、おもしろい宛名で届いた異国からの手紙の思い出がひとつあります。
1980年代前半、砂漠での暮らしやラクダの扱い方を覚えるために、マリのトンブクトゥの近くでトゥアレグのキャンプに住み込んでいました。
ラクダでのサハラ砂漠横断に挑戦し、マリ西部メナカという町の近くで亡くなった上温湯隆さんの「サハラに死す」という本を読み、彼の遺志を継いでラクダでサハラ砂漠を横断してやろうと、その準備のために遊牧民からいろいろなことを学んでいました。
そんな時、上温湯さんの遺骨を発掘し、日本に持ち返ろうという日本人がやってくると聞き、お手伝いしたいと砂漠の暮らしを中断してガオ(トンブクトゥから400kmほど東の拠点)まで出かけていきました。
ガオでは、日本からやってくる人を待っている間に、3人のドイツ人とふたりのモーリタニア人に出会い仲良く過ごしていました。
さて、それからいろいろトラブルもありましたがなんとか、上温湯さんが亡くなった地域で死因について聞き込み調査を行い、首都で上温湯さんの遺骨発掘・国外搬出の許可を得た後、遺骨を掘り出して日本に送ることができ、私はトンブクトゥの遊牧民のキャンプへ戻りました。
それから数ヶ月後、トンブクトゥの郵便局からキャンプに連絡が入りました。
郵便局まで出かけていくと、
「やあ、これはきっと君への手紙だと思って探していたんだよ」
渡された封筒には私の名前はなく、たった2行こう書かれていました。
Mr. Nomade Japonais 日本人遊牧民 殿
Tombouctou, Mali トンブクトゥ、マリ
開けてみると、それは確かに私宛の手紙でした。
ガオで出会ったドイツ人のひとりクラウスからでした。
「ドイツに戻った後、(一緒にいた)リタがいなくなってしまった。
マリへ戻っているかも知れない。
もし彼女の消息がわかったら教えて欲しい。」
ガオにいた時、中でもとりわけ意気投合したモーリタニア人のジュマルが私にふと言ったことがありました。
「ドイツに行けば仕事が見つかるかなあ。
ジゴロっていうのは・・・」
ジュマルは結局ドイツ人たちの旅に同行せず、彼らを見送りました。
しかしクラウスは、リタとジュマルの関係に気づいていて私に手紙を書いたんですね。
「自分の目的であるラクダの旅があるので、すまないけれど今リタを探してあげられない。
ガオのホテルの女将に調べてもらったが、リタはガオには行っていない。
彼女について何か耳にしたら必ず知らせる」
と返事を書きました。
それから数年後、ダカールの目抜き通りポンティのカフェで、どこかで見た顔が隣に立ちました。
ジュマルとの偶然の再会でした。
「ドイツに戻ったリタに手紙を書いてナイジェリアの連絡先を教え、やって来た彼女としばらくアビジャンで暮らして別れた。
ドイツに行かないと決めたから」
トンブクトゥに届いた手紙の物語は、私の中で数年後にようやくケリがつきました。
今までにもらった手紙の中で、一番シンプルな宛名で、けれど長い物語の思い出でした。
ところで、1983年にアルジェリアのガルダイアから送った小包みは、1986年に日本に届きました。
いったい3年間もこの小包みはどこに行っていたのでしょうか。
郵便物到着に3年ですか(笑)預けたトコで1年地方拠点で1年首都で半年、半年かかって船便で日本?もしかしたら世界を旅してきたのかもしれないですね。気になる事がひとつあるんですが結果、ラクダによる旅は成功されたんでしょうか?
ラクダの旅は、マリとアルジェリアの国境でラクダを売り、そこで取り止めました。
その次第については、近いうちに書くことにします。