日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

ジャン・ルーシュ氏、ニジェールで交通事故死

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仏映画監督ジャン・ルーシュ氏、ニジェールで交通事故死

引用元:asahi.com : 社会

ニジェールに、映画の関する行事のために招かれていたジャン・ルーシュ (Jean Rouch) 氏は、夫人やニジェール人俳優の友人 Damoure´ Zika 氏とともに、ニジェール人映画監督 Moustapha Allassane 氏の運転する車に乗り、夜8時頃タウアに向かっていました。Birnin N'Konni の近くで、対向車のまぶしいヘッドライトを避けて右にハンドルを切った車が、停止灯をつけずに止まっていたトラックに激突したそうです。

氏は、土木技師として1941年にニジェールに赴任しましたが、やがて人類学と映画の作成に仕事を移し、ニジェールを舞台に1947年に "Au pays des mages noirs" を発表しました。
以後今日までに、ニジェール、ガーナやコートジボワールの人々の暮らしを描いた作品を中心に、120本近い作品を世に送り出しました。
"les Mai^tres fous"(1954) や "Moi, un Noir"(1958) などの作品は、ビジュアル文化人類学(anthropologie visuelle)、映像人類学(Cine-Ethnography) の古典と呼ばれ、今も高く評価されています。氏はまた俳優としても何本かの映画に出演されていました。

上記以外の主な作品
  • les Fils de l'eau (1955)
  • Jaguar (1957)
  • la Pyramide humaine (1959)
  • la Chasse au lion a` l'arc (1965)
  • Cocorico M. Poulet (1974)
  • Bougo, les fune´railles du vieil Anai¨ (1979)
  • Dionysos (1984)
  • Boulevards d'Afrique (1989)
  • Moi fatigue´ debout, moi couche´ (1997)

氏はニジェールのドキュメンタリー映画だけでなく、ニジェール川沿いの農耕民族ソンガイ(ジャルマ)に関する論文もいくつか書いています。
私が故ジャン・ルーシュ氏について知ったのも、トゥアレグと同じ生活圏に住むソンガイについての氏の論文からでした。

ジャン・ルーシュ氏に関する書籍

10年以上前になりますが、私のセネガル滞在中に、親しくしていただいた日本人専門家と協力隊員の方が別々の交通事故で亡くなられました。
その後も、ニジェールのアガデスで旅行代理店を営み、自身がドライバーでもあるトゥアレグの友人 Ankan がやはり交通事故で亡くなっています。
ブルキナファソでは、日本の開発事業に携わっていた何度か面識のあったブルキナベがやはり交通事故で亡くなりました。
サヘルの郊外の道は、道路整備が十分でなく、照明のない道路も多く、突然飛び出してくる家畜や野生動物もいます。また整備不良でライトのつかない車も少なくありません。そんな危険の多い道ですが、地理的に障害物が少ないため長い直線ルートが続くため、夜になってもスピードを出して走っている車が絶えません。
みなさんもサヘルに行かれた折には、夜間の長距離の移動はできるだけ避けるようにしてください。

追記:ジャン・ルーシュ氏の詳しい経歴

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コメント(1)

そうですね。確かにだれだれが交通事故で亡くなったという話はよく聞きます。病死などもそうですが、本当に死が身近なものと思われます。

マリに限らないと思いますが、夜間と病院が休みの日曜日は長距離の移動をなるべくひかえた方が賢明ですね。ガイドたちも暗くなってからの移動は嫌がります。

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このページは、Yoshinori FUKUIが2004年2月20日 06:45に書いたブログ記事です。

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