日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

結婚記念日

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私たち夫婦は3度結婚している。

1度目は1991年9月11日。
マリで挙げた伝統的な結婚式だ。
もっともこの時、私は日本にいたので自分の結婚式に出ていない(涙)
フィアンセだった妻に、「結婚しよう!」と手紙を書いたら、みんな喜んで結婚式が行われた・・・

2度目は、1992年2月5日。
日本のお役所に結婚届を出した日だ。
これも、その日に書類は出したが、その後法務局からの呼び出しがあり偽装結婚ではないか調べられたりして、結婚届が受理されたと連絡があったのは1か月ほど後だった(書類上は提出日が受理日になっている)。

そして3度目は2001年12月28日。
マリの役所での婚姻届の受理日である。
これも、実際は1990年末にマリ北部の役所に結婚届けを出していたのだが、民族紛争と役所の火事で書類が紛失したため改めて届け出たという経緯がある。

マリで伝統的な結婚式を挙げた頃から、ニジェールに端を発した民族問題がマリにも広がった。
妻の住む村の人間は、すべて反政府側の人間と見なされることになった。
手紙だけを頼りに妻と連絡を取っていた私は、このことを聞いて本当に心配した。
妻とその姉妹、両親は、大切なものを土の中に埋め、取る物も取り敢えず砂漠の中に逃れた。
食べるものもろくになく、夜火を焚くことさえままならなかったそうだ。
しばらく砂漠に身を隠していた後、親類や知人を頼りに、妻とその両親たちは喉の渇きと死の危険を感じ、身を潜めながら何10kmも歩いた。
たどり着いた姉夫婦の住む村から妻が手紙を送ってきた。
それを読んで、私は仕事を辞め、(説明しても引きとめられるだけなので)両親に置き手紙をしてマリへ飛んだ。
私がマリについた時、妻はマリで活動する日本のNGOの友人の助けで、首都まで連れてきてもらったところだった(お世話になりました)。
妻は本当にやつれていたが、再会は本当に嬉しかった。
それから、北に残っている妻の両親のところに飛び、妻を日本に連れて行きますと結婚のお礼を言って婚姻届を出して新妻の待つ首都に戻った。

妻にとって初めて国を出たのがこの新婚旅行(ということに)だ。
まずは経由地のパリ。
11月末のパリはマイナス10度という寒さだった。
妻は寒いというより痛かったそうだ。
おかげでその後の日本はパリより暖かく過ごしやすいという印象を持ってくれ助かった。

そして2月5日に婚姻届を出したのだ。

その後マリの民族問題はますます拡大した。
恩師のつてでセネガルに職を得ることができた私たち夫婦は、妻の両親や未婚で両親と一緒にいた姉妹たちをセネガルに招いた。
こうして妻の家族、マリやニジェールを逃げてきた親類、知人、果ては「あそこに行けば取り敢えずなんとかなる」と聞いた人たちが、入れ替わり拙宅にやってくるにぎやかな生活が始まった。

こんな経緯があり、2度目の結婚式が一番思い出深い。
それに、マリの家族や友人たちに祝ってもらった初めの結婚式は、自分が知らないので悔しい。
というわけで2月5日を結婚記念日にしている。

今日は昼、仕事場から急いで自宅へ戻り、妻と食事をした。
昨晩の残りのタンドリーチキンとほうれん草カレー、マトンカレーとナンだけど。
そしてまた仕事場へトンボ帰り。
夜も急いだけれど、家に着いたのは8時だった。
田舎は夜が早いので、レストランに行くには遅すぎる。
そこで、妻と娘と3人で近くの喫茶店に行き、おいしいミルクティーで結婚記念日を祝った。
結婚した時から平和が戻ったマリの状況に感謝しながら。

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コメント(3)

遅ればせながら。
11回目の結婚記念日を迎えられ、おめでとうございます。

3度ですか。
負けましたね。
ちょっとした事情がありまして、
うちは、4月の私の誕生日と5月3日が結婚記念日です。
夫は4月、私は5月が記念日とお互いに見解が違います。
いまだに譲り合えずにいますけど。
今年28回目を迎えます。
長かったような短かったような・・・。
でも、心の安定を図れているというのは、きっと幸せなんでしょうね。
と、ノロケテ帰ろ。(笑)

むむむ。
結婚した回数で勝っても、記念日を迎えた回数で負けてますね。
でもあと23年経つと
私たち:34 x 3 = 102
yoko夫妻:51 x 2 = 102
と結婚記念日の数でも追いつけます。ふふふ
さて、23年は長いか短いか・・・

問題は、それまで私たち夫婦が生きているかという
切実な(?!)テーマが立ちはだかっています。(笑)

今日から彼に健康食品でも飲ませよーかなぁ。
(妻というものは、絶対夫よりも早く逝かないと思っているものです、とツッコマれる前に言っとこ。)

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2003年2月 5日 23:03に書いたブログ記事です。

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