日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

親の責任、社会の責任

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政府の青少年育成推進本部の副本部長を務める鴻池・防災担当相は(中略)長崎市の少年による男児殺害事件に関連し、「(罪を犯した少年の)親は市中引き回しのうえ打ち首にすればいい」などと発言した。
(中略)
「14歳未満の子は犯罪者として扱われないんだから、保護者である親、(学校の)担任、校長先生、全部前に出てくるべきだ」
「沖縄も長崎も数年前の神戸も、親を出すべきだ。そうすれば親も子どもも今後、気をつける。道徳の規範がない日本国民になってしまったからしょうがない。それは縛らないと。親に自覚を持たせないと」
鴻池氏は(中略)改めて真意を問われ、「言葉のあや。例え話です」としたうえで、「子供が罪にならなければ、親が顔を見せて社会におわびをすることぐらいはしないと。出てこなかったら、引きずり出すと僕は言っている」と述べた。

引用元:asahi.com : 社会 「親は市中引き回しで打ち首に」 鴻池防災担当相

私は、親も罰しろというような鴻池防災担当相の発言にはとても違和感を覚えました。

犯罪を100%なくすことはできないでしょう。
考えるべきは、どうやって犯罪を減らすか。
そのために、まずはできるだけ犯罪者にならない「教育」をする。
そしてそれは、「家庭」「学校(教師・子供のコミュニティ)」「コミュニティとしての社会」「国(立法・行政・司法)」によってされるべきものでしょう。
どれかひとつだけで十分にできるものではありません。
未成年の教育に対して、確かに家庭と学校の責任は大きいと思います。
しかし社会や行政の責任もまた問うべきではないでしょうか。
しかし日本では家庭と学校にたよりすぎ、そこだけがクローズアップされすぎている気がします。
犯罪が起きると、家庭と学校ばかりの責任を問う報道には疑問を感じます。

あの発言はまさに、家庭と学校だけに責を求めるものでした。
自分の社会的立場とその責任をまったく考えていない。
その上、両親や教師の今の心情や状況をまったく考えていない。
言われなくても、両親と教師(学校)は、何が原因だったのか、どうしたら防げたのか、と夜も寝ないで考えていることでしょう。
他者の状況・心情が汲み取れない発言者こそ、しっかりした教育を受けているのか、こんな人に国政を任せていいのか、非常に不安になりました。

サヘルでは子供は、広い意味の「家族」が、村が育てます。
兄弟の子供も、自分の子供と同じように躾けをします。
友人の子供は、自分の子供と同じように間違いを正します。
同じ村の子供は、自分の子供と同じように礼儀を教えます。
監視の目が、いつも子供の上に注がれています。
だから悪いことは未然に防がれやすい。
犯罪を犯した場合、両親だけでなく、その子を育てている親類・友人・村がそれを恥じます。
だから敢えて親ばかりが責任を問われ、前面に出されることはありません。

もうひとつ、今回の事件とは違いますが、それで思ったことをもうひとつ。
日本では、成人の犯罪でも家庭、特に両親がその責任を咎められます。
報道を見るたびにそれを強く感じ、とても違和感を覚えます。
成人の犯罪の責任を「家族」にまで求める考えは、サヘルにはありません。
欧米にもないのではないでしょうか。
日本とサヘルは、村のあり方など共通点も多いと思っていましたが、犯罪者の親を見る目はずいぶん違うようです。

最後になりましたが、亡くなられた少年に追悼の意を表し、ご家族におくやみ申し上げます。
(2003.7.17 追記、タイトル変更)

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鴻池さんの「親は市中引き回して打ち首に」発言について、冷静に考察してみました。 続きを読む

コメント(10)

この一件だけではなく、全てにおいて日本では親と子どもを同一視し、全く別個の人格として考えていないということを、今日はずっと考えていました。

時々、日本人のお母さん(日本在住、海外在住を問わず)の子育てに、何とも言えない違和感を感じることがあったのは、もしかしてこの母子不分離があったからなんでしょうか。

いろいろと考えてしまいそうな週末です。

Weissherbstです。jujubeさん、こちらでははじめまして。

 事件の加害者といえどもその前に個人としての人権は日本には存在しないだろうか、と以前から気になっていました。「世間に顔向けできない」なんていう日本語にも日本文化が表れていますが、第三者が大勢でよってたかって加害者(とその関係者)いじめをするところ、時代はかわってもやはり「村八分」の世界なのかもしれません。こういう「世間」の犠牲になって犯罪者の家族が自殺したり、失踪しなければ生きていけないことをもっと「人の命は何か」として考えていくべきではないかと思うのですが・・・。
 日本では成人犯罪にも親が罪を求められることに、私もとても大きな違和感を感じています。

鴻池氏の発言はまさしくそのとおりだと思います。
 大阪に出張中でいたTaxiの中でも「日本には死んでお詫びを」 という精神がかってあり社会のルールを形成していたものだと話をし同乗者からそのとおりという言葉を聞いた後でした。
 若しこれが我が家に加害者の立場で起こったらどうするとだろうとワイフに問えば「息子を殺して私もお詫びのため自害する」という意見でした。
 誰も死にたくなんてありません。
 しかしながら責任の所在を自分以外に向けるという卑怯な根性はいつから始まってしまったのでしょうか。
 鴻池氏の今回の発言を暴言という根拠はどこにあるのでしょうか
 少年はまだ人格の形成が出来ていないということから「保護者」という「立場が設定されています。
 保護者が責任を取るのはあたりまえです。

 昔の人々の心はもっと豊かであったと思います。
 いつごろからこんな日本になってしまったのかと記憶を手繰ってみると戦後卒業式に「仰げば尊し、わが師の恩」と歌われなくなった時期と符合します。
 権利ばかりを主張し義務をないがしろにする風潮はそれこそ社会全体で猛反省せねばならないと思いますが西洋文化と比較ばかりしても何も生まれないと思います。私もこの春まで米国に13年住み、西洋の問題点も肌で感じています。
 日本の伝統的な倫理観・道徳観に戻るべき時期に来ています。

犯罪に関して家族及びその周辺に災いが及ぶ(日本でも刑法的には一切その様なことはないと思いますが)のは日本だけなのでしょうか?

 実状を知らずに投稿するのですが諸外国においても大小強弱はあってもやはり感情的な部分では人間の本質として避けて通れない問題なのではないしょうか?

 また、そのことが過去には良くも悪しくも犯罪の歯止めになっていたような気もします。

nobosanさん、石川さん、コメントありがとうございました。
ご意見についてお返事を書きたいと思いますが、もうしばらくお待ちください。

この件については、私も母子不分離について考えさせられました。

鴻池氏の、親子は一体であるという匂いのする発言に、どれくらいの人たちが、反発あるいは賛同の反応、若しくは無関心を示すのか、とても気になるところです。

子どもは生まれたときから親のものではなく、一人で歩いていくのに色々と手伝いは必要であるけれども、人間として尊重されなければ、健康的な大人になるのは難しいのです。日本の政治家や親や日本社会がどのくらいそのことを分かって、日ごろから子どもに接しているのか、とても気になります。日本だけでなくほかの国はどうなのか。も気になっています。

そのことは、日本だけではなく世界の教育学、子どもの発達についての研究、医学的分野などから、わかっていると思いますが、にもかかわらず、親も子も成長できずに、苦しんでいる人が多いように思います。日本の政治家および社会は、そういうことをどう考えているのか。今後の成り行きを見ていたいと思います。

nobsanさん、コメントありがとうございました。

> 鴻池氏の今回の発言を暴言という根拠はどこにあるのでしょうか

鴻池氏は最初の発言で2つの主張をされています。
1.犯罪を犯した少年の親も処罰すべきだ
2.犯罪を犯した少年の親、担任、校長を出てこさせるべきだ、それが犯罪への抑止力になる
そして真意を問われた後は別の主張をされています。
A.犯罪を犯した少年の親を出て来させて詫びさせる

> 若しこれが我が家に加害者の立場で起こったらどうするとだろうとワイフに問えば「息子を殺して私もお詫びのため自害する」という意見でした。

あの少年の親は、nobsanさん奥さんと同じように、息子の犯罪を恥じ、自分の教育が間違っていたと深く悩んでいらっしゃると思いませんか。
少なくともわたしは、両親が「私たちの教育は間違っていなかった」「私たちは悪くない」と言ったという報道を知りません。
鴻池氏の発言は、そんな両親の呵責の念を増すだけのものではないでしょうか?
(だけと書いたのは、それは問題の解決につながらないと思うからです)
1の部分の発言は少年のご両親を自殺においやる危険性さえ秘めていると思いませんか?
それがあの発言がおかしいと思う理由の1点目です。

今の法律では少年保護のため、両親はマスコミの前で詫びることはできません。
2の発言は「少年を罰せられないなら、親が顔を見せて詫びろ」と言っています。
しかし親が顔を見せるということは、親も子も社会的制裁を受けるということです。
少年を保護しつつ、両親がマスコミの前で謝ることはできませんから、2は矛盾した(不可能な)ことを言っています。
これが2点目です。

そしてAは1の趣旨をまったく含んでいません。
つまり本人も1の発言を引っ込めたわけです。
最終的にAの発言部分だけが彼の論旨と考えても、それは建設的な意見とは言えないと思います。
日本的価値観における、「犯罪があった。誰かが謝るべきだ」という心情はわかります。
しかしそれは、市民の心情であり、鴻池氏の立場にあるひとが公的な場所でまずいうべきことでしょうか。
彼の立場にあっては、制度に不備はなかったか、原因の追及を行うなど、反省と対処を誰よりも先に考え、指示すべきではないのではないでしょうか。
しかし彼は、そういう建設的な問題にまったく触れていませんでした。
そして肝心なことに触れていなかっただけでなく、氏の立場にある人があのような発言をすることは、週刊誌やウェブで少年や家族の実名や写真を公表しようとする人々を大きく助長したと思います。
これが3点目の理由です。

> しかしながら責任の所在を自分以外に向けるという卑怯な根性はいつから始まってしまったのでしょうか。

わたしはあの書き込みで、本人や家族の責任を否定していません。

> 未成年の教育に対して、確かに家庭と学校の責任は大きいと思います。
と書きました。あそこで言いたかったのは、
> しかし社会や行政の責任もまた問うべきではないでしょうか。
と、「他人の問題」として親や教師だけにその責任を押し付けずに、このような問題が起きる世の中の構成員である私たち自身がその原因を考え、ともに反省しなければいけないのではないかと、自分自身に責任の所在を向けたつもりです。

> 少年はまだ人格の形成が出来ていないということから「保護者」という「立場が設定されています。 保護者が責任を取るのはあたりまえです。

わたしも保護者に責任はあると思います。
しかし先に書いたように、鴻池氏の発言は、保護者に責任を取れと言っているのではないと思います。
少年の代わりに詫びろといっているだけです。
わたしは、それは責任を取ったことにならないと思います。
氏の発言は、感情論にしか過ぎないと思います。

ただ、鴻池氏の
「道徳の規範がない日本国民になってしまった」
という部分については、nobsanさん同様、わたしもまさにその通りだと思います。
そしてこの問題は、今の日本の社会・経済を担っている私(やあなた)の世代の責任ではないでしょうか。
ひどい世の中になったと嘆いているだけでなく、次に続く世代のためにできる限りのことをしなければいけませんね。
しかし
> 日本の伝統的な倫理観・道徳観に戻るべき時期に来ています。
というご意見については、戦後民主主義と資本主義の浸透、そしてグローバリゼーションの流れの中では、不可能だと思っています。
わたしは、ひとつの社会の中で、多様な価値観が共存できる道を探していくべきだと思っています。
次の世代が、いろいろな価値観の中で、溺れず、道を見失わず、流されず、隣人たちと共同生活ができる、自分の価値観を構築できるように、彼らを導き、暮らしやすい社会を作っていくことが私たちの義務ではないでしょうか。
このブログでも、「異文化」というトピックでそんな多様な価値観の中での共生へのヒントを考えているつもりです。

子供たちが自信を持って生きていけるように、幸せな暮らしができるように、仕事の忙しさに責任転嫁せず、しっかりと子供たちを育てていきたいと思います。

石川さん、コメントありがとうございました。

妻とこの問題について話し合いました。その中で妻の意見は以下のようなものでした。
「未成年の犯罪には、保護者の責任は確かにある。子供に替わって賠償するなどの義務が生じても当然。
しかし、親(本人)が犯罪を犯したわけではないので、親が社会的制裁を受けるのはおかしい。
ただし、あそこの子供が犯罪を犯した、と噂されることはあるだろう」
欧米でももっと個人主義による「人格の分離」が進んでいるのではないでしょうか。
アジアはよくわかりません。

とあるMLから、ここを知りやってきましたので、コメント致します。

私は心情的にnobsanのおっしゃることを理解します。親の心構えとして、子供の至らなさを恥じ、腹を切る。そういう道徳観がまだ社会の根底に残っている事の現れでしょう。至らなさを恥じ入る。この道徳観を日本人は忘れてはいけないと思います。そういう意味では、私たちは多くの過去を忘れ去ってしまったのでしょうね。

もう一度、昔を見つめ直す。昔に戻る、ということではなく、見つめ直す。そういう事は必要だと思います。私は子供に講談社の絵本を読んで聞かせています。その絵には戦前に描かれた素晴らしいものが使われています。そういう世界があるのだと、子供に知らせたいのです。

しかし、自分の至らなさに恥じ入る事はあっても、自分の子供をどこまでも信じてあげる。罪を償った後は、その子が社会に復帰できるようにきちっと支えてあげる、そういう家族愛も必要ではないかと思います。家庭の中の愛情は、道徳律と同じく大切な強い柱であると思います。

最近の日本家庭の中では、ものだけを子供に与え、親との触れ合いに欠如があるようです。プラスチックの銃ではなく、親が輪ゴムと割り箸で作ってくれた銃は、私には忘れがたい懐かしい思い出です。それはちっぽけなものですが、今でも心が温まります。昔の方が大切なものを良く保っていたのでしょうね。それは今でも捨て去ってはいけないものなのだと思います。

ちょっと前にベストセラーになった「ファミリー」という本があります。アメリカ人の書いた本ですが、その本の主張は日本にも重なっていると思いましたし、今も昔も、それ(行動で示すべき家族の愛情)が必要なんだと思います。

被害者の人権は、被害を受けた時点で
踏みにじられているわけで、いまさら
加害者をどうしようと、回復するわけでは
ありません。

また加害者を市中引き回しにすると、被害者
(今回はすでに亡くなられていますが)や
その家族・友人などが鬱憤を晴らすことは
できますが、被害者の人権とは無関係のように
思います。

被害者の人権を大切に思うのならば犯罪を
なくすことを考えるべきです。しかし辻元さんを
逮捕して他の議員は知らん振り、では、
犯罪は減らないかもしれませんね。

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2003年7月11日 21:51に書いたブログ記事です。

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