「MALI and DESERT BLOG:砂漠の魅力」のやりとりで、TAKE C さんは私と同じ「日本人遊牧民」なんだと感じました。
今日、TAKE C さんのブログの「ラクダな日常: 夢は現実になるか?」を読みその思いを強くしました。
ふたりとも、砂漠で暮らすことが夢なんですよね。
サハラ砂漠をラクダで横断しようと、ラクダを引いて砂漠を歩いていた時、今まさに自分の夢をかなえているんだ、という充実感、幸福感がありました。
ラクダで紅海まで辿り着くという目的は完遂できませんでしたが、自分なりに納得しての判断でした(旅をやめる決心をした理由については別の機会に具体的に書こうと思います)から、心残りや悔しさはありませんでした。
それどころか、砂漠を歩いた日々の感覚は、それから20年ちかくたった今でもわたしの生きる支えになっています。
あの幸福感は、今も消え去らず胸の中に残っています。
あの体験と、それを支えてくれた砂漠での多くの出会い、そして人間がそこにある砂の一粒でしかないように思わせる砂漠の自然の大きさは、私を砂漠の虜にしてしまいました。
旅を終えた後、日本に戻った私は悶々としていました。
しかしそれは、大きな夢を実現してしまったためにその後の目的を見失ったとか、満足感のあとの放心状態に陥っていたからではありませんでした。
確かに大きな満足感と、だからまあ、今なら、急に事故や病気で死んでもあきらめがつく、というような気持ちがありました。
しかしそれと同時に、また砂漠に帰りたい、という思いが強くなり、ではどうやって砂漠で暮らしていくか、という問題を考え始めていました。
ひとつ夢を見終えたら、次の夢が膨らんできたというところでしょうか。
描き続けてきた夢が現実に変わった瞬間を、私は心のどこかでまだ認めたくないと思っているのかも知れません。
これを読んで、日本に戻った後の私の気持ちと、カタールで暮らしながら TAKE C さんが感じる戸惑いは、程度の差こそあれ同じものなのではないかと思いました。
実現してしまった夢は、もう夢ではありません。
では、実現した夢の先には何があるのでしょうか。
わたしたちふたりの場合、それは砂漠に暮らしたいという新しい夢でしょう。
しかし、それを実現するためには、犠牲にしなければならないことがたくさんあります。
それが、TAKE C さんや私の今の悩みにつながっています。
突然ですが、マズローの欲求段階説というのがあります。
私はそれを、15年ほど前にマリに心理学的な研究にこられた日本人の方に教えていただきました。
砂漠の暮らしについて考える時には、よくこの説を思い出します。
人間の欲求は,5段階のピラミッドのようになっていて,底辺から始まって,1段階目の欲求が満たされると,1段階上の欲求を志すというものです。人間の欲求の段階は,生理的欲求,安全の欲求,親和の欲求,自我の欲求,自己実現の欲求です。生理的欲求と安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,親和の欲求とは,他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求で,自我の欲求とは,自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求のこと,そして,自己実現の欲求とは,自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことです。
引用元:〜 マズローの欲求段階説 〜
(上記引用ページに図もあります)
私たち日本人は、(砂漠の暮らし相対的に見れば)基本的な生活が満たされています。
そのため、欲求のピラミッド構造の上部にある自己実現の欲求に苦心しているケースが多く見られます。
一方、生活環境の厳しい砂漠やその周辺では、欲求はそれ以前の段階にあります。
この違いは、ピラミッドの形の違いとして考えることもできます。
・日本人の欲求のピラミッドは底辺が小さくとても高さが高い
・砂漠の人たちのピラミッドは、底辺がとても広く高さが低い
私たちのピラミッドは不安定で、砂漠の人たちのピラミッドの方がずっと安定しています。
それが、サヘルの暮らしに私が見る幸せにつながっている気がします。
私たちの高次な欲求は、精神的にも高いレベルのもので、それ故にその欲求は、置かれている現実からかけ離れた夢として形作られることもままあるでしょう。
私の、ラクダで砂漠を横断したい、という夢はまさにそういうたぐいのものでした。
しかし砂漠に暮らす人々は、手に届くところにあるものを夢とし、その中でゆったりと暮らしていました。
砂漠の民にその違いに気付かされ、自分の夢が色褪せて見え、私はラクダの旅をやめる決心をしました
しかし日本に戻った私は、別の、けれども以前と同じ段階にある夢を追い始めてしまいました。
そんな懲りない私ですが、砂漠に赴くたびに、砂漠の厳しさとそこに暮らす人々に囲まれるうちは満足感に満たされています。
あるがままの自分に幸せを感じます。
それは、砂漠の自然・社会環境の厳しさが、私の欲求の段階を下げているためとは解釈できません。
その状況が低次の欲求を生み出しているからではないからです。
もうひとつ、砂漠における満足感を分析してみると、それは独立した私個人によって成り立っているのでなく、そこに住む人々と砂漠という自然との一体感によって得られているもののように感じます。
するとそれは、もしかするとマズローの自己実現の欲求という段階を超えた、自己超越(マズロー自身が後年考えたより高次な段階)の感覚、あるいはトランスパーソナルなレベルのものではないかとさえ思えます。
(マズロー Maslow, Abraham H 後半のトランスパーソナル心理学の項参照)
私や TAKE C さんが、砂漠で腰を落ち着けて暮らし始めたら夢はどうなるのでしょうか?
そこにも不安が生じるのか、次の夢を探し始めるのか。
その答えは、いつか、本当にいつか、砂漠で暮らし始めたときにまた書きたいと思います。
沙漠を愛する同志jujubeさん、こんにちは〜。
もう7年くらい前ですかね、jujubeさんに日本で一度だけお会いしたことがありますが、その時に沙漠をラクダで横断した時の話などを伺って、「へぇ、すごい人もいるんだなぁ。自分とは別世界の人なんだなぁ」という感想を持ったのですが、数年が経って、今度は自分がその別世界へ足を踏み入れてしまいました。
そんな私にとって、jujubeさんは、沙漠について、ラクダについて、一緒に語ることの出来る数少ない「日系遊牧民」です(^-^
私自身の戸惑いというのは、途中色々と苦労みたいなものがあったものの、全体としてみれば結構すんなりと今の場所まで辿り着いてしまったので、「え?こんなんでいいの?」と驚いているといったところでしょうか。
最終的にはやっぱり沙漠でラクダに囲まれながら暮らしたいですね。それは今すぐやろうと思えばできることなのですが(アル・アインにいる友人に”住み込みで働かせてくれ”と頼めば可能。でも給料殆どナシですし、朝から晩までクタクタになるほど働かないといけないので、今は選択肢に入っていません 笑)、とりあえず、他にも夢はたくさんあるので、それらを実現させてからですね。
わたしにとっても、それは実現不可な夢じゃぜんぜんないです。
しがらみを捨てちゃえば、マリの砂漠で、住むところはあります。
砂漠の暮らしを支えてくれる友人や妻の親類もいます。
いつでも、いつまでも、それは私を待ってくれている。
最終的にそういう「安心感」があるから、今すぐそれを実行せず、他の夢を追っちゃうんでしょうかね。
でも、まずは日本(やほかのどこ)の暮らしの中にも、砂漠の暮らしで感じるような幸せを感じられるように心がけてみたいと思います。