日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

ラクダの旅−ひとつの夢の終わり

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昨日ふれた、なぜラクダの旅という夢を途中でやめたのか、その気持ちの変化を書いてみようと思います。
これまでに書いた思い出話と重複しているところもありますが、わかりやすいようにひとつの流れとしてまとめてみました。

遠い外国に行ってみたいというのは、誰しも一度は抱いたことのある気持ちでしょう。
幼・少年期にエルマー、ガンバ、ドリトル先生シリーズ、そして極北の犬トヨンなどの冒険小説?を愛読していた私は、その思いをとても強く持っていました。

高校生になった頃にその思いはさらに高じていましたが、行きたいところは欧米や北アメリカではなくなっていました。
それは中学3年でイギリスに夏休み留学させてもらった体験と、USAのサッコとヴァンゼッティ事件を扱った「死刑台のメロディ」の影響が強かったと思います。
USAへの興味は黒人の人種差別の話題を聞くたびに薄れ、イギリスの文化や自然はすばらしいかったけれど、もっともっと異なる文化を体験したいという思いが強くなりました。

そんな頃、シーブルック(本田勝一じゃない)の「アラビア遊牧民」を読み、アラビアだ!ベドウィンと生活してみたい!と思いました。
しかしその後、上温湯隆の「サハラに死す」に出会いました。
上温湯の行動にとても共感でき、生き生きとした描写にサハラ砂漠の虜になりました。
そして思い半ばにしてサハラで果てた彼の遺志を自分が継ごうと思いました。
しかし大学受験に失敗し予備校生活を送っている頃には、その思いは薄らいでいました。
そんな時、同志社大学の探検部の学生ふたりが、ラクダでサハラ砂漠横断の冒険にでたという記事を読みました。
これはとにかくショックでした。
自分が夢を忘れかけている時に、同じ夢に向かって実際に行動しているものに出会った、という衝撃です。
後悔の念に涙が溢れ出てきました。
その時、あのときああすれば良かったという不実行の後悔は2度としたくないと思いました。
これが今も私の座右の銘です。
大学はアラビア語を勉強できる学部に入り、時間があるとサハラに行ったことのある人たちを訪ね歩きました。
2ヶ月ほど時間のとれる学年の変わり目には実際にサハラへの旅にも2度出かけました(当時はアルジェリアーニジェール/マリのサハラ縦断ルートが使えました)。
そして大学卒業後、大学時代の旅でつてのできたマリ北部に再訪し、ラクダの旅の準備として、遊牧民のテントに住み込んで、砂漠の生活、ラクダの世話、彼らの言葉を学びました。
(この時、日本から来られた人をアシストして上温湯の死因を調査し、遺体を発掘し、日本へ送りました)
そしていよいよ、数年越しの夢の旅に出ました。

いつか書きましたが、ラクダを買っていざ出発しようとした日にはクーデターが起きて数日足止めをくらいました。
なんとか移動許可がおり、ラクダを引いて歩き始め、村の外で颯爽とラクダに乗ろうとした途端、今度は鞍紐が切れて見事に転落。
そんなその後の旅を予感させる幕開けでした。

ラクダの失踪、ラクダのケガ、買い換えたラクダが砂漠でふてくされて動かなくなってしまったこと、女性問題に巻き込まれた最中に高熱で意識が飛んだこと、砂で角膜が傷ついた痛み、砂嵐、豪雨、サソリに刺されたこと、砂が舞い地形も太陽の位置もつかめず迷ったこと、12日も井戸に辿り着けず最後の水を飲んだ数時間後に井戸に着いたこと、本当にいろいろなことがありました。
しかし、行く先々でもてなしてくれた遊牧民の暖かさと、今まさに夢を実行しているという喜びは、そんな苦労よりも遙かに大きく、トラブルはまったく旅を続ける妨げにはなりませんでした。
しかし1980年代前半、20世紀の中でも深刻で長期的な旱魃がこの地域に広がりつつありました。
旅を続けたくても、ラクダの食べる草がなくなってきていました。

ある晩、テントの近くで荷物を下ろさせてもらった遊牧民と、夕食後のお茶を飲んでいるとき尋ねられました。
「どうしてラクダで旅しているんだ?商売でもない。家族のところに帰るためでもない。誰かに会いに行くためでもない」
「俺たちは生きるために『北』に行く」
マリでは北に砂漠があります。
だから北は厳しい砂漠の象徴です。
「おまえは北に行く必要がないだろう」
「おれは稼ぐためにラクダに乗る」
「おまえは消費するためにラクダに乗っている」
旱魃で家畜が痩せ細り死んでゆき、家族を養うための糧がなくなりつつある男に、「夢」「ロマン」という言葉を口にすることはできませんでした。
彼を納得させられるとは思えませんでした。
「砂漠で一番すばらしい女性を探し歩いているんだ」と冗談でごまかすだけだした。
(実際にその後結婚したいと思う女性に出会えましたが、旱魃の中、彼女は帰らぬ人になりました)

彼の言葉は、私の心にしっかりと刻まれました。
サハラ横断のような起点と終点を結ぶ計画を完遂するためには、まわりに目を奪われてはいけません。
ひたすらゴール目指して走り続けなければいけません。
しかし私は、多くの遊牧民の世話があって旅が続けられていることを前に進めば進むほどに無視できなくなり、ゴールよりもまわりの人々に心を奪われはじめていました。
ふと気が付くと、夢を食べている私の目の前で、私のラクダが、痩せ細った家畜のために草を探している遊牧民の土地のかけがえのない草を食べていました。
潮時だと思いました。

そしてラクダの旅を終えました。

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コメント(2)

いや〜この気持ち、同感ですよ。
場所は違えど、僕も、似たような経験を、数知れずしました。
この旅の話、もっともっと、知りたいですよ。

himalaya さん、

> この旅の話、もっともっと、知りたいですよ。

砂漠ペースでゆっくりとしていきたいと思います。

himalaya さんの方の経験も聞かせていただけることを楽しみにしています。
Terra は、定期巡回コースに入れました。

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2003年12月 4日 22:39に書いたブログ記事です。

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