日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

命日

| コメント(1) | トラックバック(0)

コーランを読む義父今日は義父の命日です。
3年前、義父が亡くなった時に書いた文章を載せます。

写真は1988年の義父(内戦前)

マリ共和国の砂漠の村で暮らす義父が亡くなりました。
義父は、マリの内戦後めっきり体力が亡くなり、1か月ほど前から寝込んでいました。
2000年3月23日、彼は日の出前まだ暗いうちに目を覚ましました。
しかし、手に力が入らず、ファジル(イスラム教の夜明け前の礼拝)の時間を確かめるために手に持とうとした懐中電灯を落としまいました。
その音を聞いた義母は、ファジルの時間になるとそれを彼に教えました。
義父は、手も上にあげられなかったので、横になったまま口の中で言葉を唱え、礼拝を行いました。
日が昇ると義父は Surat-l-ikhlas(クルアーン−イスラム教の経典−の一章)を唱えました
唱え終わると口の端から一筋、よだれが落ちました。
義母は、それを見ていなければ、眠ってしまったと思ったような静かな臨終だったそうです。

義父は、フランス植民地下時代、フランス人司令官とマリで最初の遊牧民のための学校を開きました。
その後、小学校のフランス語教師、市井のアラビア語やクルアーンなどの教師として多くの遊牧民に教育の機会を与えました。
現在政府や国際機関で働いているほとんどのトゥアレグやアラブは、一度は義父の教え子でした。
授業中に叱っても、そのあと必ずその生徒を呼んであめ玉をあげるような優しい教師だったそうです。

同世代あるいは下の世代の多くの教師が、フランス語を手段として、給料が破格の開発関係の仕事に鞍替えしてしまったり、政治権力の闘争に身を投じる中、まったく権力も金も追わず、いち教師、そしていちムスリムとして生きた人でした

90年代半ばの民族紛争の最中、義父はいつ殺されるかもしれない状況を覚悟の上で、マリの北部に残りました。
暴力に対する暴力という手段でなく、また政治的な舞台にも決して立たず、あくまでふつうの生活を続けることで、その狂気に抵抗しました。
民族の対立の中よりも、同じ地域に暮らしてきた人々の絆を信じた義父でした。

しかしそれゆえ、結果として自分の民族の信頼を失うよう状況になりました。
これが晩年の義父にはやはり堪えたようでした。
内戦後、目に見えて体力も気力も衰えました。

妻と結婚についても、この父親の娘ならきっと美しい心の持ち主だろう、私の弱いところを支えてくれるのではないか、との考えがその決断を後押ししました。
人種偏見などまったくなく、本当に結婚を祝福してくれました。
亡くなる数日前に、実子でもない私にとても会いたいと伝言をいただいたばかりでした。

義父からは、いっさいものをねだられたことがありませんでした。
アフリカでいろいろな人とつきあってきた中でも、これは本当に希有なことです。
晩年まで、子供たちと畑を耕し、読書を愛し学び続けた義父でした。
物質的にはほとんど何も残さず亡くなった父ですが、親類や私たち夫婦の心の中には多くのものを残してくれました。

義父の訃報をきいて、寒い砂漠の冬を過ごさせず、我が家に招いてあげれば良かった、体調が悪いと聞いていたのだから病院に入れてあげれば良かった、といろいろ後悔ばかりが心に浮かびました。
唯一何かしてあげられたと思うのは、元気な頃にハッジ(サウジアラビアへの巡礼)に送り出してあげられたことでしょうか。

訃報を聞いた後落ち込んでいると、私よりずっと深い悲しみにつつまれている妻に、亡くなる時が来たから亡くなったのだと逆に慰められました。

私には決してできない厳しい道を歩んだ義父を尊敬しています。
義父から亡くなる少し前、「正しい道を進むように、後戻りしないように」と言われました。
(私のちゃらんぽらんさが義父の耳に入ったのでしょうか・・・恥ずかしい)
今思うとそれはまるで死期を悟っての遺言のようです。
義父の言葉を忘れずに生きていきたいと思います。

孫を抱く義父右の写真は1998年撮影(内戦後)

500以上ものトゥアレグの諺を教えてもらったのも義父でした。
昔の史実もたくさん聞かせてもらい録音しました。
妻は時々、生前に父が自分が読んで録音してくれたクルアーンを聞いています。
妻は、その死に目に会えなかっただけでなく、それ以前も1年ほど父と会っていませんでした。
私たちが一昨年末に日本にやってきたのも、「私のように死に目に会えないのは辛いから、老齢の両親の側にいてあげるべきだ」という妻の説得がその理由のひとつでした。

あの内戦では友人や親類がたくさん殺されましたが、義父を通して、そして難民化して辛い年月を過ごした家族や友人を通して、戦争で直接亡くなったりけがをしなくてもそれが計り知れない傷跡を残すものだという思いが私の心に刻まれています。
あんな悲惨なことは二度とあってほしくないと思っている中イラクで、必然性のわからない戦争がおこされました。

イラクの報道のたびに、内戦がなければ義父はあれほど急に老け込まずもっと話ができたのにという悔しさ、戦争に対する怒りが湧いてきます。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://sahelnet.org/mt/mt-tb.cgi/105

コメント(1)

jujubeさん、こんにちは、お久しぶりです。
ときどき、ここに覗きに来ているのですが、お元気でいらっしゃいますか。

私、今月父が亡くなって・・・この「命日」のエッセイを前から気に入って読んでいたのですが、この文章とここに込められた気持に、今は以前よりも感銘を深くしています。

私、このエッセイがとても好きです。きっと何度も読みにきますね。

コメントする

このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2003年3月23日 02:48に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「コミットメント」です。

次のブログ記事は「誕生日」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。