日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

モーリタニアでクーデター

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الحكومة والمعارضة تزعمان السيطرة في موريتاني

現地時間で8日午前2時頃から、首都のヌアクショット市内で銃撃戦が起こりました。
軍部の一部によるクーデターのようです。

1984年12月、私は首都から150kmほど西のブティリミというところにいました。
ラクダに乗ってサハラ砂漠を横断しようと、そこでラクダを買って、首都に向かおうとした日でした。
町を出ようとしたところで、クーデターの知らせが入りました。パスポートを取り上げられ留め置かれました。
4日ほどしえtパスポートを返してもらえました。それからラクダを引いて3日ほどで首都に辿り着きました。その時には、首都は何事もなかったように落ち着いていました。

モーリタニアでは、その3年後にも、もう一度クデターがありました(未遂事件)。
しかし、その語は、モーリタニアも世界の流れに逆らえず、民主的な手続きによる憲法の制定と大統領選挙を経て、「近代国家」として落ち着いたかに見えました。しかし実際にはそれは、そこに暮らす人々の実生活と乖離した名ばかりの「民主化」だったのでしょう。それが今回の事件になったのでしょう。

モーリタニアは、正式な国名がモーリタニア・イスラム共和国であり、外交方針としては基本的に、非同盟・中立路線を貫いていますが、アラブ連盟の一員であるとともにアラブ・マグレブ連合に属し、イスラム諸国との協力に積極的な姿勢を示してきました。
しかし過去にはアルジェリア、モロッコ、セネガルなどとの国交断絶(現在はいずれも修復)、マリとの国境地帯での衝突なども経験しています。また、1999年10月にイスラエルとの外交関係を樹立したことから、アラブ諸国とは緊張関係が生じていました。そして、西アフリカ諸国との関係強化を図ってきましたが、2000年末にはECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)から脱退しました。
このような状況から、国内でもその政策に対する不満が鬱積していたようです。

モーリタニアはフランスからの独立後、以下のようにこれまでにも何度もクーデターやその未遂事件を経験しています。
1960年11月 フランスより独立
1960年〜1978年 モクタール・ウルド・ダダ政権
1978年7月 クーデター、サレク大佐、国家再建軍事委員会議長就任
1981年3月 クーデター未遂
1982年2月 クーデター未遂
1983年1月 クーデター未遂
1984年12月 マアウヤ・ウルドゥ・シダハメッド・タヤ首相によるクーデター(現政権)
1987年10月 クーデター未遂
1991年7月 新憲法採択政党結成許可
1992年1月 大統領選挙、タヤ大統領選出
1997年12月 大統領選挙、タヤ大統領再選

今回の事件は、イスラエルとの国交に反発するイスラム組織と軍部の一部が結びついたもののようです。
当初、BBC NEWSやWashingtonpost.comなどは、クーデター失敗とのニュースが流れていましたが、8日午後になっても散発的に銃撃戦が続いているようです。
また続報がありました知らせします。

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コメント(2)

友達のイセルモの家族は大丈夫だったらしく一安心してました。

でも、銃撃戦続いているようです。

このHP、開いたら、サヘルの風が吹いてきました。

そして、記憶も。

いつも、すぐ、いろんなものをなくしてしまいますが、

なんか、おとといの夜から、風が吹いているようです。

セネガルでは、ありがとうございました。

あの時からアフリカと繋がったようです。

とりあえず、ミンドロ島へこれから行ってきます。

とても分かりやすく書いていただいたので、この文章を元に、夫と二人で今夜、話をしてみようと思います。そして、このホームページをきっかけに、関心が高くなったアフリカについて少しずつ知って、いろんな方とお話したいです。

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このページは、Yoshinori FUKUIが2003年6月 8日 23:20に書いたブログ記事です。

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