日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

「仕方ない」という優しさと諦観から

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自分ができることを子どもができないと、「簡単なことなのに・・・」と思ってしまうことがある。
子どもはそんな親の雰囲気をとても敏感に感じとる。
そのプレッシャーや劣等感が子どもをどれほど傷つけることか。

一方で、自分ができないことだと、「できなくても・・・」と許してしまう。

自分が何でもできて、子どもにも優しい親であれたら、一番いいだろう。
でも自分にできないことがあるから、子どもに優しくなれるのなら、欠点ががたくさんある自分でも親として許される気がする。

カミング・アウトを読んで。
真夜中に書き込みしているので、ちょっと感傷的かも。

もうちょっと考え続けました。

ただし、「仕方ないよ」と済ませるだけでは、子どもの多くの可能性の芽を摘み取ってしまう気もする。
できないことを、子どもと一緒に挑戦する親でありたい。

ここから考えが飛んでます(笑)

日本(先進国)と西アフリカの国々との関係は、当たり前だが、親子の関係とは違う。
でも、つい、そんな風に「上」からの視点で西アフリカの出来事を批判したり、諦めた見ていることがある。
反省。
一緒の目線で、一緒にどうしようかと考えていきたい。

あれ、でもこう考えること自体、上から見ていないか。
うーむ。
意識しないでそうあるようにしたい。

夜中にひとりで考えていると、禅問答みたいになってきたな・・・

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コメント(2)

一緒の目線だと、一緒に迷うこともあります。
「上」が必ずしも悪いことだとは思いません。
「上」が悪いのは、見下した時。
「上」には遠くを見ることもできます。
...どうでしょうか?

上下関係はキリスト教的、横並びは仏教的な感覚に通じるところもありますね。

コメントありがとうございます。

親は子どもに対して上から導いてあげる義務があるでしょう。

でも開発においては、外部のものがリードする必要はないと思います。
あくまで自己責任。
たとえば、他国への干渉や悪影響がある場合は、他国や他国の人間が、上からものを言わず、あくあで対等の話し合いを。
それが政治を離れた、参加型開発の姿勢だと思います。

ちなみにイスラム教だと、神の前では人はすべてドングリの背比べかな。

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2005年10月29日 00:50に書いたブログ記事です。

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