日本に戻り暮らし始めてから、サハラ再訪まで

サバク、砂漠、沙漠

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サバク藤田一咲の写真集『サバク』が届いた。
mixiの「砂」という砂漠・砂丘好きのコミュニティ(ほかに「砂漠」「サハラ越え」というコミュニティもある)で44田さんに教えていただき、Amazom.co.jpで注文していた。
世界中の砂漠の写真と文章、いろいろな著書からの砂漠に関する引用などを読むと、これは、決して短期間の思いでは作ることのできない本だ、著者の砂漠好きは年季が入っているなあと思った。
mixiの「砂」や「砂漠」などのコミュニティもそうだが、こういう本を読むと日本にも砂漠が大好きな「仲間」がいると知り、とても嬉しくなる。

しかし、同じ砂漠好きでも、砂漠の何が好きなのか、そこにどんな喜びを見いだすのか、当たり前だがひとりひとり違う。

多くの砂漠の写真集には、美しい砂丘の一瞬の形が写されているけれど、砂漠の厳しさと優しさの変化が感じられるものは少ない。
砂漠の民は写っているけれど、その生活臭さまではあまり感じられない。
いろいろな砂漠が目の前に広がっているけれど、ある砂漠の時間が見られるものは稀だ。

プロの写真家が、心を込めて技術を尽くして撮った写真でも、写されている対象の意味を知って写したのだろうかと考えることがある。
その植物は、遊牧民や家畜にとってどんな意味を持つのか。
そのロバの背毛がはげているのはなぜか。
なぜラクダはそっちの方角を向いて座っているのか。
遊牧民の男の足のひび割れにはどんな歴史が刻まれているのか。
知っていましたか?
知りたいと思いませんでしたか?

そんなもどかしさを感じるのは、私が砂漠に求めるものと、写真集の意図がまったくかけ離れているせいだろう。
私が砂漠に求めるものは、写真集が見せたい砂漠と違うのだろう。

私は、昼間の暑さを癒してくれる夕暮れの砂の冷たさや、皮膚を包み込むような柔らかい砂の感触が好きだ。
しかしそれは、太陽の下の砂漠の厳しさや砂嵐の辛さを知った後でこそ感じられるものだと思う。
そんな砂漠の厳しさと優しさを紙の中に閉じこめた写真集が見たい。

砂漠の縁にしがみついている人々は、砂漠と同じように厳しさと同居する優しさを持っている。
甘えのない優しさとでも言うのだろうか。
それは、日本の暮らしでは知ることのできない、物質循環が切れそうで切れない限界の悟りのような気がする。

ニジェールのテネレは、とても美しいけれど、人を拒絶しているように感じる。
私は、人のいない砂漠は恐ろしい。
大きな砂丘、地平線まで続く砂丘の群れ、風紋などはとても美しい。
けれど砂丘のふもとで生きているアカシアや、砂丘の上に続いている足跡にもっと心魅かれる。
私はそんな、砂漠での木や動物や人の気配との出会いが好きだ。

砂漠の中をラクダで旅していた時、風が凪ぐと、まわりの音がなくなる瞬間があった。
しかしそれは、完全に音がなくなるわけではなかった。
外界の音はなくなると、甲高い耳鳴りというか、自分の頭の中をめぐる血液の流れのような音が聞こえた。
それを聞いていると、自分の孤独が悲鳴を上げているような気がした。
そんな砂漠は好きじゃなかった。
私は、人のいる砂漠が好きなのだ。
いや、私は砂漠よりも、砂漠に暮らす人々や草や動物が好きなのだ。
だから、砂漠そのものの写真集に、もどかしさや物足りなさを感じるのだ。

上で書いたのは、日本人の砂漠の写真集についての一般的な感想。
例えば、やはり最近買った三好和義の 「SAHARA!金の砂 銀の星」を見てもそう感じた。
日本人にとって砂漠は、とても遠くて、ちょっとステレオタイプに概念化されたものだと思う。
藤田一咲の「サバク」は、ほかの写真集より人の気配を強く感じる。
でもそれは、砂漠の民ではなく、砂漠に立つ藤田一咲の気配かも知れない。

藤田一咲は、砂漠の砂を日本のアパートに敷き詰めるという。
私も砂漠が大好きだけれど、砂漠を自分のもとに持ってこれるとは思わない。
(砂を床に敷き詰めるのは、やってみたいと思うけれど、それは砂漠を疑似体験するためでなく、砂漠を忘れないために)
わたしは、あるべき場所にあるがままの砂漠が好きだ。
あるがままの砂漠の人々が好きだ。
だから自分が、彼らに会いに、砂漠に出掛けていかなければいけないと思う。

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コメント(3)

「沙漠そのものではなく、沙漠に住む人や動物が好きだ」
その言葉、とてもよく分かるような気がします。
手元のPCのフォルダを覗いてみると、沙漠だけを写した写真って、
実は殆どありません。
必ずラクダや山羊、鷹、ベドウィンたちが写っているものばかり。
そういうものすべてをひっくるめて、私は魅了されてしまったのでしょう。

明日から沙漠へ行ってきます。
1年ぶりのラクダたちとの再会です。

日本人の砂漠好きで1,2を競う(争うとは書きたくなかった)TAKE Cさんから、コメントいただけ光栄です。

砂漠をたっぷり楽しんできてください!

ところで、PC持って行かれるんですよね。
電源、通信手段、砂などは大丈夫なんですか?
寝泊まりとお仕事はアルアインの町でされるのかな?

いやいや、私なんてjujubeさんの足下にも及びません(笑
裸ラクダには未だに乗れませんしね(^_^;

寝泊まりは市内の友達の家です。お客用の離れがあるので、いつもそこに泊めてもらいます。
日が傾き始めたら、沙漠へGO!

仕事はメールのやり取りさえできればいいので、現地プロバイダのプリペイドサービスを使う予定です。回線はIRかBlueToothがあれば、携帯経由でも繋げられるので、沙漠の中でもOKですが(笑 さすがに沙漠で仕事はしたくありません(^_^;

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このブログ記事について

このページは、Yoshinori FUKUIが2005年10月30日 20:56に書いたブログ記事です。

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